赤木 昭三
まえがき
フランスの十七世紀と十八世紀を遠くから眺めると、それはまさに白と黒、これほど対照的な時代は存在しないように見える。一方の「聖者たちの世紀」には殉教劇『ポリウクト』を書いたコルネイユ、ジャンセニストに近いラシーヌやボワロー、のちには宗教批判の武器にもなるデカルト主義とは別人で、醇乎たる信仰心の持ち主だったデカルト、そして、パスカルがいる。他方、「啓蒙の世紀」には、ヴォルテール、モンテスキュー、ディドロ、ルソー、そして、ドルバック、エルヴェシウス、サド。二つの世紀を代表する幾人かの思想家、文学者の名前を列挙するだけで、この二つの正規の極めて大きい相違は十分明らかだろう。 この対照的な世紀の移り変わりを赤木は次のように素描する。
十七世紀の直前は、宗教的信条の対立が、流血の闘争にまで発展した宗教戦争の時代であった。そして、この大内乱が収まった十七世紀の前半、カトリックの国フランスでは、宗教改革に対抗するカトリックの反宗教改革がようやく効を奏し、宗教的熱情が激しく高揚した時期を迎える。カトリック教会は再組織された。一旦フランスから追放されたイエズス会は再び舞い戻って、各地にすぐれた学校を作り、優秀な人材を育てた。オラトワール修道会、サン=シュルピス修道会、あるいは聖母訪問修道女会など、さまざまな新しい修道会の創設が続き、俗人の熱心な宗教団体である聖秘蹟教会も結成されて、この協会は、のちにモリエールを散々悩ませることになる。また、世紀後半におけるジャンセニスムの大きい影響力はよく知られたことだ。一方、十八世紀前半の代表的な思想家は、キリスト教を陰に陽に批判したヴォルテールとモンテスキューであった。そして世紀の後半になると、これまで逃亡、追放、投獄など、さまざまな迫害に苦しめられてきたフィロゾーフの側が、今や攻勢に回る。イエズス会は再び追放され、一般人の間にも「非キリスト教化」は進み、十八世紀末の革命期になると、これまでいわば国教として、あれほど勢威を誇ったキリスト教が、一時的にもせよ廃止され、禁止されるという、まさに破天荒の事態にまで立ち到る。 こうした二世紀にわたる事態に対しての「この驚くべき変貌は、いかにして実現され得たのだろうか」と筆者は問う。そこで赤木は「不信仰」の波及に、その源泉を見る。それを詳細に検討するにあたって、第一に記述されるは十六世紀から十七世紀前半の不信仰である。
十六世紀はといえば、この世紀に真の不信仰が存在したか否かについて、かつてリュシアン・ファーヴルとアンリ・ビュッソンという二人の碩学が真っ向から対立したことがあったが、これを受けて、近年フランソワ・ベリオが示した結論によれば、十六世紀に、ミシェル・セルヴェ、エチエンヌ・ドレ、ジャック・グリュエなど、幾人かの自由思想家が存在したことは確実であり、孤独なこれらリベルタンの相貌と思想が一段と明らかにされつつある。そして、つづく十七世紀になると、相も変わらぬ投獄、追放、火刑、その他大小さまざまな迫害のさなかにも、自由思想の川幅は増大し、流れは一層多様になり、歴史の表面に浮かび上がることこそ少ないけれど、世が乱れ、取り締まりが緩むごとに、これに乗じて忽然とその姿をあらわし、時代の底流として、つねに流れてやまないさまを誇示するのである。(...)十七世紀はじめには、イタリア・ルネサンス思想の強い影響を受けた詩人、テオフィル・ド・ヴィオーとその弟子たち、十七世紀前半には、ラ・モット・ル・ヴァイエやガブリエル・ノーデなど、広大な博識を駆使して、霊魂の存在や奇跡、予言、さらには神の存在まで疑った「人文学者リベルタン」、世紀の真ん中を横切った異端思想の万華鏡、シラノ・ド・ベルジュラック、ついで十七世紀後半に輩出した社交界のエピキュリアンで、「オネットム・リベルタン」ともいうべきサン=テヴルモンやメレやミトンたち こうしたリベルタン達を挙げた上でポール・アザールに則り、十七世紀末にその決定的契機をみる。 二つの世紀の間には、ポール・アザールの名誉によって忘れがたいものとなった、あの十七世紀末という過渡的な時代が存在し、それは不信仰が急速に蔓延した時期であったと考えられている。それはまた、信仰のみならず、さまざまな精神的価値が動揺し、「古いフランス」と「新しいフランス」とが対立しながら共存する、一つの転換期であった。一方では、宗教思想家のボシュエやフェヌロン、宗教哲学者のマレブランシュ、そして『人さまざま』を「自由思想家について」というキリスト教護教論で締めくくったモラリスト、ラ・ブリュイエールの名を挙げ、他方には、十七世紀中葉のリベルティナージュをつぎの世紀に伝えた、あの「尊敬すべき老人」サン=テヴルモン、最後のリベルタン、あるいは最初のフィロゾーフであったフォントネル、そして、その宗教批判が十八世紀に大きな影響をあたえたピエール・ベールの名を並べると、この時代の過渡的な様相が鮮やかに浮かび上がる。しかしポール・アザールが、やや大げさに「ヨーロッパ精神の危機」と名付けた、この困難な局面も、古きものに対立する新しいものをそれまでに準備した、さまざまな思想の流れなしには存在し得なかったことは明らかだ。 こうした継起の先に十八世紀に到達する。
十七世紀末に大きな流れとなった自由思想は、さらに新しいものを付け加えながら、とうとう十八世紀に流れ込む。ところで、その十八世紀前半の代表的な思想家はまずモンテスキューとヴォルテールであろうが、彼らは、キリスト教こそ否定するものの、宇宙を創造し、そこに秩序を確立した、全知全能、全き善、全き愛なる神の存在を確信する、穏健な理神論者であった。だが、彼らの同時代には、彼らが君臨する思想の地上の世界の下に、実は、広大な地下の世界が存在していたのであって、この世界を無視しては、彼らの時代の思想の全体像を把握することなど、とうてい不可能だったといっても過言ではない。それは、地下で、匿名の作者、写字生によって、密かに書かれ、書き写され、その時代の最も危険な、最も奥深い思想を載せて、フランス各地に、さらには、ヨーロッパ全土へと送られていった、百六十数篇にものぼる地下文書の織りなす世界であって、その詳細と全体像は、フランス本国においても、まだほとんど知られていないが、ここ数年の動向からうかがえば、近い将来にはその研究の飛躍的な進展が期待される。
本書は「人生の半分近くを」、「十七世紀のさまざまなリベルタン」と過ごした赤木が、十七世紀から始まり十八世紀に転換するその歴史を明らかにした日本屈指のフランス近世業書である。
第一章
「リベルタン世界の多様性」
一口にリベルタンというが、その実態は実に多種多様であって、考察を思想の面にかぎっても、テオフィル・ド・ヴィオーやそのグループの詩人たちに代表されるルネサンス思想の体現者から、ラ・モット・ル・ヴァイエその他の会議主義者、さらにはフォントネルのような、デカルト流の機械論的宇宙の支持者までがリベルタンなのである。詩人、小説家もいれば、学者もおり、何も書かなかった人物もいる。貴族や貴族社会の寄生者もいれば、町人もいるし、ナントの勅令廃止の犠牲になって、ヨーロッパ流浪の旅に果てた亡命者もいる。リベルタンの語の十七世紀的な意味としては、「不信仰者」とともに「放蕩者」をも含んで、独特の雰囲気を持つが、その名の示すとおり、居酒屋にたむろして、瀆神の悪罵を吐き散らす放蕩無頼の反抗者から、典雅なエピキュリアンやサロンのオネットム、さらには、私生活がまるで話題にならなかった、酒も飲まない本の虫まで、その変化の面白さには事欠かない。これら多彩なリベルタンが、時代の流れのなかでその思想を変貌させ、さまざまなグループや人脈を形成しながら、あるときは世を忍んで蟄居し、あるときは華々しく社会の表面に立ち現れ、まれにはリベルタンふうが流行となって半ば風俗化することさえあり、その複雑多岐にわたる動きは安易な整理、総合を許さぬものがある。
第二章 テオフィルに始まる悲観主義的リベルティナージュ
リベルティナージュ文化の源泉
まず十七世紀初頭に騒がしく登場するのは、詩人テオフィル・ド・ヴィオーとそのグループである。宗教戦争直後の比較的自由放縦な時流に乗ったこれらリベルタンは、宮廷にまで羽振りを利かせ、若い貴族たちのあいだに多くの弟子を作ったが、やがてこの風潮に危機感を抱いた保守層の反撃を受け、一六二三年にテオフィルは捕らえられて、長い牢獄生活と裁判の末、辛うじて一命は取り留めるものの、釈放後間もなく衰弱して死ぬ。この見せしめにリベルタンたちは震撼し、行状を慎み、仮面をかぶる。やがて、これにつづく宰相リシュリューの登場、その鉄のごとき弾圧によって、彼らは長い冬の時代を迎えることになる。 ではテオフィルは如何なる思想のもと弾圧されたのか。赤木は次のように紹介する。
まずテオフィルの神は、エピクロスの神に似て、人間世界に一切関心をもたない神、「何物にもかかかわりをもたず、運命のなすがままに任せる」神であり、その唯一の働きは「世界に霊魂をあたえる」こことにすぎない。そして、この神のあたえた宇宙霊魂が物質と結びつくことによって、人間はもとより、動植物から無生物にいたるまで、宇宙の万物が形づくられる。この意味で、万物も、その総体としての宇重全体も、生命をもった存在だということができる。宇宙を動かすものは、厳密な「必然性」であり、それは人間にとっては「宿命」にほかならないが、この「宿命」をつかさどるもの、それはテオフィルによれば、「星辰」である。神と世界についての以上の思想から、つぎのような人間観が帰結する。テオフィルによれば、人間はその「誕生のときに、宇宙霊魂の一部分である「天の火」を賦与されるが、「四元素」からなる物質と、「天の火」によって形づくられた人間は、逆らいがたい「宿命」の星に操られて人生を歩み、やがてその生を終えると、彼を形づくっていた「不滅の諸元素」は再び分解したのち、永遠に新たな結合と分解を繰り返し、他方、個人の霊魂は、ふたたびもとの「宇宙霊魂」のふところに戻ってから、また別の個物をつくって、繰り返し再生する。「宿命」に追われ行く「人間に何の自由もない」。「宿命」は、絶えず人間を追及し、 そのもたらすものは、もろもろの「災厄」であり、「苦」であり、恐ろしい死である。厳しい「宿命」は、また人間にあっては、情念と欲望であり、人間はまったき「情念の奴隷」高貴な「天の火」も、ともすれば「肉の総体」の中にのめり込んで、理性の努力は徒労であり、意志もまた無力なのだ⋯⋯。 テオフィルが、そのさまざまな篇に盛り込んだ思想を整理すれば、おおよそ以上のごときものであるが、すなわち何事にも無関心なエピクロスの神(キリスト教の人格神、「愛と怒りの神」の否定)、「宇宙霊魂」に貫かれたアニミスティックな世界と、その「宇宙霊魂」の一部分にすぎない人間の霊魂(個人としの人間の霊魂の不滅性の否定)、「宿命」=「星辰」に支配される世界と人間(神の摂理の否定と人間の自由意志の否定)等は十七世紀初頭のリベルタンが、キリスト教の教理を否定する諸論拠を示すと同時に、彼らがキリスト教とは無縁な地盤の上に打ち立てようとした、世界と人間についての整合的な解釈を鮮やかに示して興味深いが、実は、これらの思想の多くは、長い放浪の末、一六一八年にトゥールーズで火刑に処せられたイタリアの哲学者、ヴァニニを通じて、前世紀の偉大なイタリア・ルネサンスの思想、中でもキリスト教界においては悪名高いパドゥア学派の伝統につながるものということができる。 以上がテオフィル哲学の全容である。イタリア・ルネサンスに端を発するテオフィルの思想は、彼の死と共に絶えることなく、弟子によって継承されることとなる。
テオフィルの作品が示すこのような思想のパターンは、テオフィルの死とともに消滅することなく、その後、テオフィルの友人、弟子たちが、ほぼそのままに受け継いでいくことになる。たとえば、彼の愛弟子で、数々のスキャンダルに彩られたその長い生涯は、同時代の脳裏に「リベルタン」のイメージを焼き付けた、あの放蕩無頼のデ・バローも、「自然の創り主は宇宙の霊魂」と、自作の詩の中で歌ったというし、テオフィルの最年少の友で、シラノ・ド・ベルジュラックの賛辞によれば、当代「唯一の詩人、唯一の哲学者、唯一の自由人」であるというトリスタン・レルミットは、なおその上に、錬金術、占星術、魔術、その他、あらゆる神秘学への関心を付け加える。このようなルネサンスの思想は、シラノにおいて最後の花を咲かせたのち、地下に潜り、デカルト全盛の一七世紀末にふたたび忽然と姿を現して、つぎの世紀に少なからぬ影響をあたえる こうして後世に名を刻んだテオフィルの思想は、デカルトに真っ向から反する思想であることが理解できよう。なぜなら「デカルトの直前、またデカルトと同時代の詩人リベルタンの思想は、合理主義的な方法を確立し、精神と物質を峻別するデカルトの思想」に対して、ちょうど対照的であると言える。これは人間観にも現れる。
第三章 デカルト批判の世紀
デカルトは、一六二五年から二七年にかけて、すなわちオランダに居を定める直前の数年間、パリのメルセンヌを中心とする新しい科学者たちと変わって、メルセンヌ、ミドルジュなど幾人かの友人を得る一方、彼自身も、新進科学者としての令名をはせる。だが、一六三七年の『方法叙説』、一六四一年の『省察』の刊行によって、独創的な哲学者としての相貌を現わしはじめると、その「形而上学」は、そしてまた実験的検証を欠いた、「独断的な」その自然学は、たちまちパリの科学者たちの批判にさらされ、この状況は、一六五〇年にデカルトがストックホルムで客死するまで変わることがない。 一方、新しい科学者の活躍と、ほぼ時を同じくして、デュピュイ兄弟の著名なアカデミーが人文学者や文人を集めはじめる。パンタールの名著によって、その歴史、その活動、またそのメンバーの各々の個性的な風貌まで、鮮やか に描き出されたこのアカデミーは、偏見に囚われない自由検討の精神、宗教的、思想的寛容、またユマニスムの伝統を踏まえた古代の書物の研究とともに、旅行者や旅行記のもたらす、さまざまな文明圏の諸制度、風習、宗教への開かれた、旺盛な好奇心、さらには、その背後にあって、それを支える具体への強い関心、無限に多様で豊かな人間的現実への着目と抽象的思弁の排除など、さまざまな魅力ある思想的特徴で知られるが、このグループもまた、科学者たちと同様、デカルトには批判的だった。(...)ところで、このデュピュイ兄弟のアカデミーの常連は、パンタールの度重なる示唆にもかかわらず、そのすべてがリベルタンだったわけではない。そこでは、純乎たる信仰の持ち主から、かつてはテオフィルのもとに出入りしていた放画者の法官、フランソワ・リュイリエや、二百年後にスキャングラスな「告白」が発見されて、話題を呼んだ「もう一人のジャン=ジャック」、ジャン=ジャック・ブシャールのような真正のリベルタンまで、その宗教的態度は多種多様である。そして、このグループではデカルトの唯一の論敵となったガッサンディは、その死後に広まった悪評にもかかわらず、おそらくリベルタンではないので、このグループに属する人文学者リベルタンが、直接デカルトを批判した文書は存在しないということになる。だが幸いにも、後述のとおり、彼らリベルタンはデカルトにたいして、ガッサンディと同じ姿勢を取っていたと見ることができる。それだけではない。実はさらに広く、ガッサンディをはじめとして、リベルタンをも含めた人文学者たちのデカルト批判も、また前述の新しい科学者たちのデカルト批判も、以下の分析で示されるように、その拠って立つ思想的基盤は共通なのである。 本章では第一にガッサンディと科学者によるデカルト批判を検討し、第二にリベルタンの思想―主にル・ヴァイエとガブリエル・ノーデ―の検討に入り、これらすべてが同一の思想的基盤の上に立つことを論証する(上記でガッサンディを非リベルタンとして扱う所以は、下記を参照のこと.R Pintard, op cit., とくに La troisiéme partie ; chap. II. Les deux philisophies de Gassendi ; R. Pintard, 《Des nuscrits de Gassendi à I'œuvre imprimée: la genèse du Syntagma philoso-phicum》, in La Mothe le Vayer-Gassendi-Guy Patin. Etudes de bibliographie et de critique, suivies de textes inédits de Guy Patin, Boivin, 1943, pp.32-46 ; B. Rochot, 《Le cas Gassendi》, Revue d'Histoire Littéraire de la France, 1947, pp. 289-313;R. Pintard, 《Modernisme, Humanisme, Libertinage -Petite suite sur le 《Cas Gassendi》》,R. H. L. F., 1948, pp.1-52 ; O. Bloch, La Philosophie de Gassendi, Nomina-lisme, Materialisme et Metaphysique, Nijhoff, La Haye,1971. とくにその《Avant. Propos》.)
非リベルタンによるデカルト批判-プチ、メルセンヌ、ガッサンディ
それでは、まずは第一のガッサンディと科学者によるデカルト批判をみていこう。そこで紹介されるデカルト批判のテクストは四篇であり、新進科学者ビエエール・プチによる『方法叙説』批判、メルセンヌの反論(『省察』 の「第二反論」)、とガッサンディの反論(『省察』の「第五反論」)、および、この「第五反論」にたいするデカルトの 「第五答弁」をさらに再反駁した「再抗弁」)、である。第一に、彼らの批判対象となるデカルトの神の存在証明をみていきたい。 デカルトの神の存在証明を一瞥すると、それは『方法叙説』では、第四部の第四パラグラフの前半であって、そこにおけるデカルトの論証は、つぎのように要約することができるだろう。すなわちデカルトは、絶対的に確実な真理を求めて、すべてを疑ったのち、その疑っている自分が存在することは、絶対に疑いえないと考え、疑う自分、考える自分、すなわち精神としての自己の存在を確立する。ついで、問題のパラグラフにおいて、神の存在の証明に入り、以下のごとく推論する。私は疑っている。ところで、疑っているものは、完全であるということはできない。だが、疑っているその私が完全でないと考えるのは何故か。それは、私の中に完全なるものの観念が存在するからだ。では、その観念は、一体どこから私の中に来たのか。それは不完全な私がつくり出したものではありえず、 必然的に、私の外に、完全なる存在、すなわち神が存在し、その神によって私の中に置かれたものであるにちがいない。以上が『方法叙説』で展開する論証である
そこでデカルトは観念を三つに分類する。それは自らの想像でつくりだす「作為観念」、自らの精神の外側からの感覚器官によって得る「外来観念」、最後に如何なる人間の精神も原初から有する観念、「本有観念」である。デカルトは我や神をこの「本有観念」として見出したのだ。こうした存在証明に対する批判として、紹介する第一はプチによる批判である。 プチは未開人を例にとり、神の本有性を否定し、「教育」と「政治」によって幼少期に育まれる「先入見」が神の観念を本有的にみせるのだとする。則、キリスト教的精神を教育によって培った者は、それを無闇に手放すことができないのであり、同時に神に代わって罪を裁く、大義に基づく罰への身体的恐怖がそれを確固たるものとするのだ。次に紹介するはメルセンヌのデカルト批判である。
ついで四年後の一六四一年、メルセンヌは、『省察」にたいする「第二反論」で、やはり神の観念の本有性を否定する論陣を張るが、そこにおいても、上述のプチの論拠がふたたび取り上げられる。すなわち、そこでも、完全なる神の概念は、思惟するものとしての私が持っている何らかの完全性をもとに、同様の完全性を、一つ、また一つと無限に積み重ねていくことによって得られるとか、あるいは、物体的な事物についての認識から形成することもできるなど、順序もなく並べられた諸論拠に混じって、神の観念が形づくられるのは、「心の先人的省察、書物、友人たちとの語り合い等々からである」こと、その証拠には、「カナダ人やヒューロン人、その他の米間人は、なんらこの種の観念を挙示することができない」事実がここでも主張されているのである。
最後に紹介するのはガッサンディである。ガッサンディは、プチやメルセンヌ同様、神がいない未開人をあげると同時に、全観念の外来性を論じ、滑り落ちるシニフィエとしての神という起源性について語る。またプチに続き、リヴァイアサン的性質としての神を論じる。 上記でわかるように、非リベルタンは未開人の例に皆立脚し、神の本有性を第一に打ち砕き、多様な理論をもって後天的かつ人為的な神の起源を論じたのである。彼らは後天的かつ人為的な神の起源については複数の理論をもちつつ、未開人の例において共通の袂に立つのである。
以上、簡単ながら、三人のデカルト批判者が、デカルトの主張する神の観念の本有性にたいしておこなった反論を検討したが、そこに見られたように、彼らは一致して神の観念の人為性、後天性を力説し、しかもしばしば、まるで申し合わせでもしたかのように、同じ論拠を繰り返して、この観念の形成を、デカルトとは反対に、全く経験的に説明しようと腐心したのである。ともにデカルトを拒否する人文学者と科学者の深い思想的共通性、彼らとデカルトとの深刻な思想的対立は十分明らかで、もはや贅を必要としないと思われるが、最後にそれを端的に示す一事実のみを、もう一度取り上げて、この主題の締めくくりとしたい。それは、三者がデカルトを反取するために繰り返し主張した、神を知らない「カナダ人」の存在である。この事実にたいするデカルトの態度は明確で、彼は『省察」の「第二答弁」において、このような事実は、自分のように感覚を斥け、理性にもとづいて判断する者の「心に浮かんでくることがあり得ないもの」として一蹴する。デカルトの立場からすれば当然であるが、デカルトのこのような尊大な、侮蔑的な態度にもかかわらず、彼ら三人は、神を知らない多数の人間が存在するという「事実」に固執し、つぎつぎつぎと、執拗に、同じ事実を掲げて、デカルトに迫る。この一事ほど、彼らとデカルトを隔てる深淵、彼ら三人を結びつける強い絆を如実に示すものはない。この強力な共同戦線を考えれば、デカルトの思想が、彼の生前、バリではほとんど受け入れられなかったのは、十分納得できることだろう。
こうした非リベルタンのデカルト批判者の論調は、あらゆる点でリベルタンの理論に依拠している。その意味でリベルタンの理論は、非リベルタンと極めて緊密であると同時に、非リベルタンに対して先見的であることを示している。
これらのデカルト批判において注目に値するのは、その中に、しばしばリベルタン的言説が見え隠れすること、しかも、この三者の反論の中でつねに繰り返されていた重要な論拠のなかに、それが見出される事実だろう。一例を挙げると、人間に神の観念を植え付けた要因として、メルセンヌとガッサンディは、両親、教師、読書、友人、さらに広くは、「人間の社会」の影響を指摘していた。前述のとおりであるが、しかし、プチの表現によれば、神の観念が「それを失うことは、われわれ自身の本性を引きはがされると思われるほど」 われわれの精神に「深く刻み込まれ」ている事実を説明するためには、メルセンヌやカッサンディの挙げたこれらの要因は、いかにも弱い、微温的なものであって、正直なプチは、それに代えて、教育や政治、社会による「強制」という論拠を持ち出さざるを得ない。だがこの論拠は、実は、デカルトによれば、「無神論者から借りて来た悪い常套文旬」であり、デカルトに、「異端華間が少々厳しい国ならば、彼は火刑を恐れなければならないだろう」とまで言わせた、危険なリベルタンの論拠なのであった。また三人が繰り返し力説していた。あの神を知らない「カナダ人」の事実も、実は後述のように、生粋のリベルタンのラ・モット・ル・ヴァイエが、同じく神の観念の先天性を否定するために、彼らに先立って利用したものであった。さらにガッサンディは、前述のごとく、最初の人間はどこから神の観念を得たのかと、デカルトに問いつめられると、神の観念の人為的起源を示すために、さまざままな古代人の説明を整理して、詳述していたが、これらの説明の大部分もまた、当時のキリスト教護教論者から、「無神論者のしるし」として強く非難されていたものであり、事実ガッサンディ自身も、晩年の大著「哲学集成」の中では、これらを改めて否定しているほどなのである。このように、リベルタンでないこれらデカルト批判者の反論の中に、リベルタンの、あるいはリベルタン的論拠が繰り返し登場することは、彼らとリベルタンとの思想的関連の緊密さをうかがわせるに十分なものがある。以下で明らかにされるように、人文学者リベルタンもまた、これら三人のデカルト批判者と共通の思想的基盤に立っているのであって、そのことは、つぎにリベルタンの思想を検討する際に、徐々に明らかにされるはずである
リベルタンによるデカルト批判
オラシウス・ツベロによる『古代人を模倣した対話』というタイトルをもった三巻の作品がある。一六〇四年と一六〇六年、フランクフルト刊行という偽りの出版年、出版地が書いてあるが、実は一六三〇年と三一年に出されたラ・モット・ル・ヴァイエの作品で、九篇の「対話」が含まれている。デカルトに、「わずか三〇部の本」「三五部の本」と呼ばれ、確かな小数の友人、知人のみに、秘かにあたえられたこの「悪書」は、作者の存命中、ついに実作者の名を冠して出版されることがなく、死後の全集からも省かれた、いわくつきの作品だが、この九篇の「対話」の中に、「神について」と題され、のちには「諸宗教の多様性について」と改題された一篇があり、これによって、作者ラ・モット・ル・ヴァイエの自由思想を、ある程度はうかがうことができる。もちろんこの対話にしても、用心のために、最後は教化的な結論で締めくくられており、また文中の論述においても、大胆な否定の前後には、肯定の論拠も置かれて、一見公平な扱いに見えるが、肯定の論拠は、分量的にも否定論より、はるかに少なく、その主張に熱もなく、作者がどちらに傾いているかは、明らかに見て取れるのである。冒頭の導入部ののち、まず検討されるのは神の存在の問題であるが、この核心部分については、のちに詳しく論じるとして、つぎに進むと、一応、神の存在は肯定した上で、作者は神の摂理や神の本性に関する、さまざまな意見の検討に入り、これについて人々のあいだに見解の一致が何ら存在しないことを示す。まず神の摂理が取り上げられ、作者はこれを肯定する意見を紹介したのち、否定に移って、神が個々の人間の運命に介入する事実を否定し、したがって、神を礼拝し、尊崇することの無意味を説き、つづいて神を侮辱した人間のさまざまな事例までを良々と述べる。また別の箇所では、霊魂不滅に関する、相対立する意見が述べられ、ここでもやはり否定論が強調されている。神の摂理ののち、ついで神の本性の問題に入り、これについての、ありとあらゆる意見が列挙される。すなわち、ある者にとっては、神は「円」であり、他の者には「人間」の姿をとる。神は、あるいは「不死なる動物」であり、あるいは可死である。自己を神格化しようとした人間も多く、それ故、ある者によれば、「人間のほうが、神より古いのである。なぜなら、神を作ったのは人間なのであるから」。あらゆる自然物が、あらゆる動物が、かつては神とされた。「釈迦という東洋一の哲学者」などは、「無」を神と考えて憚らなかったのである。したがってまた世界には、ありとあらゆる宗教があり、礼拝の形式がある。なかでも、つぎの一節は、キリスト教徒を噴激させるのに十分だろう。「古代の異教徒が浄めの水を使ったように、われわれは教会に入るとき、聖水で額を洗う。マホメット教徒はモスクの戸口で、まえとうしろの陰部を洗う。ハイチのインディアンは、聖壇の足元に胃の中のものを吐いてしまえば、あらゆる罪は清められると考えていた」。このような宗教の多様性の中で、その一つを選び取ることなど、どうしてできるだろうか。したがって宗教的寛容こそ君主の取るべき最善の道であり、狂信は強く咎められるべきである。それがいかにおそるべき害毒を流すかは、フランス全土を引き裂いた、先年の宗教戦争を考えれば明らかではないか。これに反して無神論者は、国家、社会の見地から見ても、却って無害なのである、等々。古代の書物から東洋や未開の諸国の事例まで自在に引いて、ピトレスクな細部の魅力に満ちたこの「対話」の内容を、極めて手短に要約すれば、ほぼこのようなものになるだろう。以上、神の摂理や霊魂不滅にたいする疑い、ありとあらゆる神の観念、ありとあらゆる宗教の中でたった一つのものを選ぶことの不可能性と愚かしさ、宗教的寛容の称揚と狂信の告発から、無神論者の社会的無害説まで、これだけでも、すでにショッキングな論拠が、豊富な実例とともに披瀝されていた このように統治としての宗教的寛容を謳いながら、自身は無神論に立脚するル・ヴァイエからはある種の諦念が伺える。ル・ヴァイエは、一神教の狂気が社会に崩壊を招くことを知りながら、愚かな大衆を無神論に回心させることができるなどとは自らを過信しない。それは後に論じるノーデの影響だろうか?それは次に引用される文にも含意されている。
そうした立場を表明するル・ヴァイエは先に論じた神の存在について如何に思考するか。
こうしたル・ヴァイエの説は明らかに非リベルタンに影響を与えていることがわかる。統治としての神、神の起源、神を知らない種族、これらの批判を博学な文献に基づき行う様は、非リベルタンによるデカルト批判そのものであるだろう。一方、相違点も存在する。
まず明らかなことは、彼の主張と、先に見た三人のデカルト批判者のそれとの著しい類似である。ラ・モット・ル・ヴァイエが反駁したのは、前述のとおり、「神の直観」であるが、この反駁は、そのままデカルト批判に読みかえることができる。またその反論の方法も、抗いえない事実、または事実にもとづいた推論による点といい、例の、神を知らない種族の存在や、政治による強制を持ち出す点まで、両者の思想的態度の共通性は明らかだろう。もしラ・モット自身がデカルトと論争したとすれば、どんな反論を展開したか、目に見えるようではないか。それにも劣らず注目すべきことは、先の三人のデカルト批判者との相違点である。そしてこの相違点こそ、ラ・モット・ル・ヴァイエが、まさしくリベルタンであることを端的に示すものといえるのだが、まず神の経験的起源についての、前述のガッサンディの説明と、ラ・モット・ル・ヴァイエの記述とを比較すると、前者ではその網羅的とも見える詳細な列挙にもかかわらず、ラ・モット・ル・ヴァイエがもっとも力を入れて、真っ先に挙げた二つの原因が省かれていることに気づく。それは第一に、自然の脅威を前にした人間の「恐怖」から神が生まれたとするルクレティウスやペトロニウスの説明である。これを、あの博学なガッサンディが知らないわけがない。彼の遺著『哲学集成』には、ちゃんと引用され、かつ論収されているところを見れば、明らかに故意に省かれたものである。とすれば、これこそ、すぐれてリベルタン的論拠と考えてきしつえあるまい。そしてまたこのことは、内容的にも首肯しうることであって、自然の恵みから神を想像するという逆の場合とは、一見似ているようで、全く違ったニュアンスでもって、神の観念の虚妄性、その起源のいかがわしさ、おぞましさを白日のもとにさらけだす。第二には、ラ・モット・ル・ヴァイエでは二番目に挙げられているエピクロスの説であり、これもガッサンディでは省かれているものだが、夢の中で、「想像が与える。(...)不思議な幻影」に神の観念の起源を見るこの説は、神の観念の迷妄性を前者以上に鮮やかに示すものといえるだろう。つぎの相連点は、ラ・モット・ル・ヴァイエで三番目に挙げられていた、宗教と政治の結びつきをめぐる考察に関するものである。同じ主題についての言及は、前述のとおり、ガッサンディとプチにも見られたが、その内容は、ラ・モット・ル・ヴァイエとは随分違うのである。まずガッサンディのテクストを再読すると、その叙述は、隠れて悪をなす悪人を戒めるため、立法者が神の全能と死後の裁きを信じ込ませるという、陳腐な内容を盛るにすぎない。また同様の主題はプチにも見出され、プチは、前述のごとく、神の観念を、本能的とも思えるほど強く、人間の精神に刻みつけるものとして、政治的、社会的強制を挙げていて、この意見こそ、プチが、デカルトの怒りを買った主たる原因であり、これが「無神論者から借りてきた常套文句」であることはまちがいないが、同じく宗教と政治の結びつきを論じながら、ラ・モット・ル・ヴァイエの視点は、これと異なり、「愚昧な」しかし恐ろしい人民を統御する有効な手段としての宗教という、新しい側面から、この問題に近づくものであった。 自然への畏敬を起源とする神、夢或いは想像力を起源とする神、愚かな民衆を束ねる統治術としての宗教肯定。これら三点において非リベルタンとは異なる固有の論理なのである。そして三つめにあげた民衆の統御としての宗教という「マキャヴェリ直伝のこのテーマを、あますところなく展開するのが、ラ・モット・ル・ヴァイエの親友であるマキャヴェリスト、ガブリエル・ノーデの『非常手段に関する政治的考察』と題された論考なのである」。 ノーデの初期の作品からすでに看取されて、ノーデの思想の核ともいえるものは、まず民衆の愚かさ、恐ろしさの認識であり、それはノーデを生涯、強力な秩序の待望者、したがって、当時確立されつつあった絶対王政の支持者とする。第二の核は、超自然の領域の否定、すなわち啓示、奇跡、予言その他、一切の超自然と見える事象にたいする超自然的な解釈の拒否である。ノーデにとって、当時まだ盛名を保っていた占星術師、魔術師、錬金術師らは、すべて詐欺師、「大道香具師」にほかならず、超自然的と見える現象も、その原因がまだ人間に知られていない自然的事象でなければ、すべて人為的な産物、しかもその多くはペテンにすぎない。そして、この二つの思想が結びついて、独特の政治論を展開するのが、これまたラ・モット・ル・ヴァイエの『対話』と同様、初版わずか「一二部」の秘密の書、『非常手段に関する政治的考察』であった。すなわちノーデによれば、民衆は信じ易く、ことに驚くべき出来事には、たちまち騙される、愚かな存在である。だがまた民衆は、その愚かさ、軽信のゆえに扇動され易く、そして一旦動けば、「嵐の海」のようにすべてを呑み尽くし、押し流す。この恐ろしい民衆をくびきに繋ぎ止めて、秩序を維持し、社会の安泰を保つもっとも有効な手段は、その愚かさと軽信を利用し、奇跡、予言、神秘のたぐいによって彼らを、あるいは恐れさせ、あるいは引き付けることである。こうしてノーデによれば、あらゆる国家の創設に際しては、かならずこの種の「巧みな手段、欺瞞」が用いられ、「長い一連の野蛮と残虐の先頭に、宗教と奇跡を歩ませる」のをつねとする。一国の転覆、または「国家の保存や再建」に際しても、宗教が決定的な役割を果たすことは、歴史に照らして明らかである。このようにしてノーデは、為政者が宗教を利用するあらゆる方法、すなわち自己の神格化、神との変わり、奇跡、夢、幻、警示、予言などを分類、説明し、これらを利用した大帝国の創設者、君主、政治家などの事例を移しく列挙する。その中には、真重な筆遣いながら、キリスト教を政治に利用した実例が、しばしば登場するのも注目を引くが、それに劣らず興味をそそるのは、かの大宗教と大帝国の二つながらの創始者、マホメットの事跡だろう。ノーデによれば、マホメットは奇跡、予言、その他あらゆるペチンを使ったのも、その最後の仕上げとして、怖るべき奸計を思いつき、これを実行する。彼は、そのもっとも忠実な「奉公人」を呼び、彼が大衆を従えて通る大道の傍らの井戸に潜んで、「マホメットは神の愛し子である」と二度叫ぶ役目を承服させる。だが、一旦事が手筈通りに行われると、彼は、俄にこの奇跡を神に感謝し、「つき従った大衆に、この偉大な奇跡を記念して、ただちに井戸を埋め、その上に、小さいモスクを建立されたいと言った。この巧みな手段によって、たちまちその哀れな奉公人は、小石の山に打ち砕かれ、埋められ、この奇跡がいつわりであることをあらわにする手段を、永遠に奪われたのであった。ダガ、ソノ声ヲ大地ハ拾イ取ッタ。ソシテ、カノ饒舌ナ筆モマタ」。マホメットのこの数々の策略、この戦慄すべき殺人は、また同時に、イエス・キリストの上に、すなわち、その生涯は、マホメットと同様、予言や奇跡に満たされ、そしてまたその確立した宗教は、いまや地上の大帝国となった。もう一人の「神の愛し子」の上にも、黒い疑惑の影を投げかける⋯⋯。以上が、ラ・モット・ル・ヴァイエとノーデのもっとも大胆な作品からうかがえる宗教批判のあらましである。 結論
第一に唱えるは、一七世紀フランス思想史の若干の訂正である。デカルトの思想の普及は、科学者と人文学者の手によって本国では制限されていたのであり、一七世紀末やその後の展開を誇示し、一七世紀フランスをデカルト一強の世紀と唱えるは性急かつ無謀すぎる結論である。そこで赤木は、科学者と人文学者の両コミュニティに出入りし、両者に劣ることのない博識のもと、その橋渡しを実現したガッサンディこそ一七世紀前半フランス思想史の代表的思想家ではないかとするのである。
われわれはまず新しい科学者であるピエール・プチとメルセンヌ、人文学者の代表としてのガッテンディ、この三人によるデカルト批判、とくにデカルトの主張する神の観念の本有性にたいする反論を検討し、これら科学者と人文学者の反論は、いずれも共通の思想的基盤に立ってなされていることを明らかにした。ついで人文学者リベルタンのテクストを検討し、彼らの思想的基盤もまた前者と共通のものであることを示すことができたと思う。デカルトの立場とは鋭く対立し、これらすべての思想家に共通な基盤とは、一言で言えば、前述のように「形而上学における懐疑主義」と感覚論的立場であるが、新しい科学者と、リベルタンをも含めた人文学者たちと、その関心の対象は異なり、またそれぞれの研究領域に応じて、その思想もまた特殊化し、さらにそれぞれの個性によって独特の展開を遂げていく。だが根本のところでは、彼らはすべて上述の同じ思想的基盤に立っていることは注目に値する。この事実は、あまりにもデカルト中心的なフランス十七世紀思想史に、若干の訂正を要求するものであろう。たしかにデカルトは巨大な思想家であった。そしてまたたしかに一六六〇年以降は、デカルトの影響は日に日にそのひろがりと深さを増し、一七世紀末には一世を風靡するにいたる。だがデカルトの生きた世紀前半には、科学者と人文学者の、この強大な連合軍によって、デカルトの影響は、フランス本国では、制限されたものにとどまるのである。一六六〇年以前のフランスにおける思想的リーダーを強いて求めるならば、それはデカルトではなく、むしろガッサンディではないだろうか。豊かな人文学的素義をそなえるとともに、新しい科学者の一員でもあり、デュビュイ・アカデミーの指導的なメンバーであると同時に、メルセンヌ・アカデミーの一員でもあったガッサンディ、両アカデミーの中で、デカルトに対抗しうる唯一の哲学者として、人文、自然の両領域にまたがる研究の理論的支柱を提供しえたガッサンディこそ、この強大な連合軍を結びつける要ではなかったか。そしてガッサンディをはじめ、この新しい科学者、人文学者たちの思想、すなわち、あらゆる形而上学に懐疑的で、理性の全能を信じず、「現象」を所与として認めた上で、「事実」にもとづいて真理に近づこうとする彼らの思想的態度は、デカルトに支配された世紀後半を越えて、十八世紀に大きく花開く。彼らの目からすれば、デカルトの君臨する十七世紀後半の五十年は、むしろ長い回り道、巨大な挿話と見られなくもないであろう。
第二に唱えるは、人文学者リベルタンの半端さである。彼らはあらゆる超自然主義に徹底的に戦ったにも関わらず、どこか自然の神秘化を残してしまっていた。彼らは神のオルタナティヴを自然にみたのであり、それに留まってしまったのだ。
人文学者リベルタンは、前述のとおり、この共通の思想的基盤の上に、彼ら独特の世界を築き上げた。彼らは反デカルトの巨大な運合軍に属し、デカルトにひけをとらない思想でもって、デカルトと対峙する戦線の一部を構成していた。もしも彼らがデカルト思想を受け入れたとすれば、彼らの構築した世界は崩壊し去っただろうから、彼らがデカルトにたいして一歩も譲らないのは当然のことであった。だが、このようにデカルトを拒否し、他方では、同時代に始まりつつあった新しい科学研究の実際からも遠かったことは、同時にまた彼らの限界をも形づくる。まず彼らは、一切の超自然-神秘、奇跡、そしておそらく、神を認めないが、しかし、その彼らにとって、自然そのものが、十分厳密に自然的だっただろか。もしそうでないとすれば、自然そのものものが、そこにおいてはすべてが可能なもの、超自然的なものとなり、彼らが排除しようとした超自然と自然との区別が、根底から崩れ去ってしまうおそれなしとしない。たとえばラ・モット・ル・ヴァイエによれば、自然の「等しさ」、「一様性」と見えるものも、人間精神のこのような性質を、自然に投影した結果にすぎないし、パドア学派最後の哲学者クレモニーニの愛弟子だったノーデの自然観は、究極的にはアリストテレス学派のそれを出ることはなかったのである。この点、もしも彼らが、デカルト的な厳密な機械論的宇宙を―しかもそこから神を排除した形で―受け入れることができたとすれば、彼らの超自然批判は、はるかに強靭なものになっただろう。そして、ここで先回りして、一言だけ付加えるとすれば、これはおそらく、その後の、もっともラディカルなリベルタン、たとえば十七世紀中葉のシラノ・ド・ベルジュラックの晩年の、あるいはまた十八世紀はじめのメリエ司祭の課題になるはずのものであろう。
第三に唱えるは宗教の矮小化である。政治的統御術として宗教を評価することは、内からそれを打破することはできない。これは赤木によるとフォントネルによって乗り越えられたとする。
彼らにとって宗教は、人間が自ら作り上げた迷妄であり、その迷妄を強めたものは、政治という、すこぶる現実的な利害との結びつきであった。このような宗教批判は、前述のとおり、つぎの世紀にも根強く生き残り、繰り返し主張される。だが、一切の宗教現象を迷妄、詐欺、ペテンで片付けるこの見解の不十分さは明瞭であり、十七世紀末にもなると、たとえばフォントネルは、これにたいして、卓抜な宗教観を対置して、これを超える。すなわちフォントネルは、宗教の問題を、人間精神の進歩という思想と結びつけ、宗教は、未開の時代にあっては、最良の世界解釈であるとして評価するとともに、だがそれは、人間精神の必然的進歩によって、やがては超えられ、否定し去られると見たのだった。ところで宗教に関して、このような全く新しい視点を取りうるためには、その前提として、「進歩の思想」と呼ばれる新奇な感想を必要とするが、それは実はラ・モット・ル・ヴァイエやノーデの同時代に、新しい科学者のあいだで形成されつつあった思想だった。人類の知的進歩を、一人の人間の成長にたとえたパスカルの『真空論序言』(一六五一年頃執筆)の一節は、よく知られているところだ。リベルタンには、進歩の思想は無縁だった。前述のように、科学、いや一切の学間の成立を疑問視したラ・モット・ル・ヴァイエに関しては、説明の必要もないが、一方、ノーデはといえば、彼は相も変わらぬルネサンスさながらの循環史観の持ち主なのであった。フォントネルの宗教観が可能になるためには、科学研究と進歩の思想が、知識人のあいだに徐々に浸透していく半世紀の歳月が必要だったのである。 実際に17世紀後半のリベルタンは、ガッサンディの功績によって、エピキュリスムの台頭の時代となった。そこで赤木が第一に挙げるは、サン=テヴルモンである。
サン=テヴルモンは、右の一文が示すとおり、エビキュリアンであって、ただ快薬のみが、人間のあらゆる行為の「真の目的」であることは、彼にとって自明の理であった。しかも彼は、「無感覚」、すなわち苦しみのない、穏やかな精神的境地を求めるガッサンディの厳しいエピキュリスムに与せず、また粗町で「低俗な」快楽追求をも斥け、動揺と平安、洗練された肉体的快楽と精神的な喜びのそれぞれを、時宜に応じて楽しんで、節度を忘れぬ達人の域を最上とする。彼の英雄は、ローマ随一の粋人ペトロニウスであったが、彼がみずから達し得たとするこの達観の境地の下に、深い絶望と不安がひそんでいることを、われわれは見過ごすことができない。すでに一六五七年に書かれたという小品『快楽について』の中で、すなわちパスカルの『パンセ』に先立って、彼は「われわれ人間の条件の苛酷さ」「われわれの生に結びついている悲惨」を自覚し、しかも人間のすべての営みを、気ばらし、「慰戯」として断罪したパスカルとは逆に、「慰戯」のもつ積極的な意義を認めて、「いわば自分の外に出る」ことを慫憑する。彼の清朗なエビキュリスムは、この冷徹な人間的実存の自覚の上に成り立つたものなのであった。 次に挙げるエピキュリアンらも、多大なるガッサンディ主義者である。
ドエノーに親しいデズリエール夫人は、若い頃デカルトとガサンディを熟読したというが、「人間の悲惨」を嘆き、理性と情念を、人間のすべての悪の根源として告発し、本能のままに生きる動物の幸福をこれに対置して、無垢の黄金時代を愛惜するこの女流詩人が、どちらの哲学者に近いかは明らかだろう。さらにモリエール、ラ・フォンテーヌという同時期の二大作家も、彼らがリベルタンであることが確かであるとするならばは、前者は、強い人間的絆によって、後者は、なおその上に、作品の中での明らかなガッサンディズムの表白によって、両者ともガッサンディの流れに位置づけられることは異論の余地のないところだろう。そして、すでに長いこのリストに、「偉大なエピクロスよ」と呼び掛け、「快楽は至高の善である」と歌うアベ・ド・ショワジー、「前後も顧みず、エピクロスの教えにしたがった」モリエールの友人、デズリエール夫人の崇拝者、フランソワ・パイヨを付け加えるならば、われわれはこの時期の主要なリベルタンをあらかた網羅したことになるだろう。 17世紀を流れる思想
第一に赤木が紹介するはイタリア・ルネサンス思想である。
1623年にメルセンヌが列挙した学問一覧表のなかには、神学や数字などのれっきとした学問のかたわらに、自然魔術、骨相学、錬金術、錬銀術、占星術といったいかがわしい学問が並んでいる。そしてポンポナッツィ、カルダーノ、テレシオ、ヴァニーニ、カンパネッラ、これらイタリア・ルネサンスの錚々たる哲学者たちが十七世紀はじめにはまだ盛名を誇っており、彼らの魔術的な自然像や錬金術、占星術などのさまざまな秘法が多くの支持者を集めていた。
「スコラの学問の凋落と新しい近代科学の台頭との間隙を縫って」イタリア自然哲学はリベルティナージュを魅了した。イタリア・ルネサンス的宇宙に共通するのは「世界の動きのすべてをつかさどる「星辰」ほしの絶大な影響力と、宇宙の万物を形成するという宇宙霊魂の思想であった」。 星辰が「地上のすべての出来事を支配」するという宇宙観は「人間がこの「宿命」から逃れることはありえない」ことを意味する。 このような思想は、キリスト教の説く神の摂理と衝突し、また個人としての人間の霊魂の不死を否定し、ひいては死後の審判、死後の賞罰をも否定する可能性を含むがゆえに、キリスト教護教論者たちの目の敵にされるが、また一方では、キリスト教に批判的な自由思想家たちの格好の糧となり、たとえば十七世紀はじめのリベルタンのリーダーであった詩人のテオフィル・ド・ヴィオーやその弟子たちの詩篇を、「不幸の星」や「宿命の執拗なおきて」、あるいはまた「神が宇宙うに霊魂を与え」などの詩句がにぎわすことになる。そしてこのような思想は、十七世紀中ごろに生きた異才、シラノ・ド・ベルジュラックの遺作『別世界』のなかで花を咲かせた 次に紹介するのはガッサンディである。
ガッサンディは、(...)古代以来存在する世界を説明するさまざまな理論のうちでも、もっとも蓋然性の高い仮説としてエピクロスの学説を選び、原子と真空の存在を原理とするエピクロスの自然論の紹介につとめた。そしてこの自然論は、のちにボイルやニュートンを経て、やがては近代科学に流れこんでいく。(...)またガッサンディがエピクロスの原子論を復活させたことはすでにのべたが、エピクロスは道徳の領域では、周知のとおり、快楽こそが人間の求める究極的な善であると主張したため、古来キリスト教世界では忌避された哲学者であった。ただしエピクロスは、もちろん低俗な快楽主義者ではなく、精神的な快楽を物質的快楽の上位に置いているし、ガッサンディも同様の考えを表明している。このように、ガッサンディ自身はおそらくリベルタンではなかったものの、単純な享楽主義者と誤解されがちなこの危険な思想家を拾い上げたためでもあろうか、彼のまわりや、また彼とはちがって正真正銘のリベルタンであったその友ラ・モット・ル・ヴァイエの周辺には、彼らの弟子をもって自認する若いエピキュリアン・リベルタンたち、シャペル、モリエール、シラノ・ド・ベルジュラック、あるいはエッセイスト、サン=テヴルモンやパスカルの友人シャヴァリエ・ド・メレらが集まり、このような弟子たちをつうじて、世紀後半の上流社会を中心にエピキュリズムが浸透することになる。(...)ガッサンディの第一の弟子、フランソワ・ベルニエは(...)師匠が死後に残したその哲学の集大成であるラテン語の大著『哲学集成』(1657)を平易なフランス語に書き改めた『ガッサンディ氏の哲学の概要』を刊行し、このすぐれた解説書は、その後何度か版を重ねた。ロックがパリ滞在中にこの本を手に入れ、これを熟読したことは確実で、同じころパリにいたライプニッツはロックをガッサンディストのひとりと批評している。そしてロックはニュートンとともに十八世紀の啓蒙思想家たちの師匠であったから、ガッサンディの思想は、こうしてつぎの世紀にまで影響を及ぼしていくことになる。また同じくガッサンディの弟子であったシャペルは、十七世紀末の高名な詩人で、エピキュリアンの理神論者ショーリューの師匠であり、ショーリューはまた若きヴォルテールの思想に強い影響をあたえたといわれる。こうしてガッサンディから十八世紀へと、いくすじもの人脈を絶えることなくたどることができるのだ。なおそのうえに十七世紀末、十八世紀はじめにひろく読まれたサン=テヴルモンの作品も、ガッサンディの懐疑主義と形而上学批判を、またガッサンディよりも過激なエピキュリズムを十八世紀にまで伝えた